会話が多い夜、地の文が長い朝——BL小説の癖を数えるということ
会話文率というひとつの数字に、ふたりをどう書いてきたかの履歴が映ります。数えることは、矯正ではありません。
原稿を数値にかけると、会話文率や、台詞と地の文のバランスといった数字が返ってきます。BLを書く人にとって、この数字は少し特別な意味を持つように思います。ふたりの関係をどう進めてきたか。台詞の応酬で距離を縮めてきたのか、それとも地の文で内面を掘り下げてきたのか。その選択を物語のあいだじゅう積み重ねた結果が、ひとつの比率になって表れているからです。数字そのものは無機質でも、そこに映っているのは関係の描き方の履歴です。
会話文率が高い書き手の原稿では、関係が言葉のやり取りの中で動きます。テンポがよく、ふたりの声がよく聞こえる。いっぽうで、言葉にされなかった感情の層が薄くなることがあります。逆に地の文が厚い書き手は、内面の襞を丁寧に追えるかわりに、相手の姿が具体的な像を結びにくくなることがあります。どちらも欠点ではなく、傾向です。そしてたいていの場合、書いている本人は、自分がどちらに寄っているのかを知りません。比率はその自覚のための、最初の手がかりになります。
数値の役割は、その傾向を見えるようにするところまでです。会話文率に正しい値はありませんし、どこかの平均に寄せることが上達でもありません。数えることの意味は、矯正ではなく自覚にあります。無自覚な癖は、物語の要請とは無関係に、惰性で反復されます。自覚された癖は、使う場面と使わない場面を選べるようになります。同じ書き方をしていても、選べるかどうかで文章の自由度は変わってきます。癖を捨てるのではなく、癖の持ち主になるということです。
同語反復の検出にも、似た二面性があります。地の文に相手の名前が何度も繰り返されるとき、検出の上ではただの反復です。けれどそれは、視線がどうしてもその人へ戻ってしまうという、文章の重力のあらわれかもしれません。数値はその両方を同じように数えます。指摘された箇所を読み返して、これは削るべき重複なのか、それとも残すべき執着なのかを決めるのは、書いた本人にしかできない仕事です。その判断の材料を揃えるところまでが、数値の受け持ちです。
そして、測れないものがあります。関係の機微です。告白の直前の沈黙に何行を割くべきか、触れそうで触れなかった手をどの位置に置くか。こうした判断は、言葉の分布の外側にあります。道具が数えられるのは表面に現れた語の配置だけで、その下を流れているものには届きません。これは道具の欠陥というより、分業の境界と呼ぶほうが正確でしょう。この境界線の位置を知っておくことが、道具と長く付き合っていくための条件になります。
だから、数えることを恐れる必要はないのだと思います。数値が明るみに出すのは癖であって、機微ではありません。癖を知ることは機微を手放すことではなく、むしろ機微に割ける注意を増やすことです。語の配置の見張りは道具に任せておいて、浮いたぶんの注意で、まだ言葉になっていないふたりの間合いを見つめる。数えたその先にあるのは、そういう静かな分業です。数字を見終えたら、あとはまた、ふたりの沈黙を書く仕事に戻ればいいのです。