「触れる」と「触る」のあいだに、BL小説の距離は宿る
動詞の選択に写り込んだ、書き手自身も気づいていない二人の距離を、言い換え候補の並びが照らし出すという話です。
「触れる」と「触る」は、辞書の上ではよく似た語です。けれど、指先に宿る意思が違います。「触れる」はかすかな接触を含む語で、偶然やためらいの余地を残します。相手に気づかれないほどの近さも、まだ引き返せる距離も、この語の中にはあります。「触る」は対象へまっすぐ手を伸ばす語で、確かめようとする意思が前に出ます。どちらが優れているという話ではありません。二人の関係がいまどの段階にあるのかによって、ふさわしいほうが変わるだけです。
動詞には、このように関係の温度が表れます。手を「取る」のか「掴む」のか「握る」のか。相手が「笑う」のか「微笑む」のか、それとも「笑みをこぼす」のか。同じ場面でも、選ばれた動詞によって二人の間合いはまるで違って読めます。地の文でどの動詞を選んだかには、書き手がそのとき想定している二人の距離が、思っている以上に正直に写り込みます。台詞で何を言わせるかを考えるより先に、動詞のほうが関係を語ってしまっていることは、めずらしくないのです。
難しいのは、この選択の多くが無意識のうちに行われることです。書き手はたいてい、迷わず「触れた」と書きます。それ自体は自然なことですし、迷わず書けるのは強みでもあります。ただ、無意識の選択は癖になります。物語の序盤と終盤とで関係は確かに進んだのに、地の文の動詞だけが序盤のままになっていることがある。関係は動いたのに、言葉がまだ動いていない状態です。読み返したときに感じるかすかな物足りなさの正体が、これであることは案外多いように思います。
言い換えの候補を並べて眺める作業の意味は、ここにあると考えています。候補を見ることは、自分が選ばなかった語を見ることだからです。「触れる」の隣に「触る」「撫でる」「重ねる」といった語が並んだとき、なぜ自分は「触れる」を選んだのかという問いが、初めてかたちを持ちます。答えが「今のままでいい」であっても構いません。並べることは語彙を増やすことである以前に、自分がすでにしている選択を点検することなのだと思います。
「〜てくれる」のような補助動詞や、受身の言い回しにも、同じことが言えます。「抱きしめてくれた」と「抱きしめられた」では、行為は同じでも受け取り方が違います。前者には相手への信頼と、それを恩恵として受け取る感覚があります。後者には、まだ身を預けきれない受け身の硬さが残ります。視点人物が相手の行為をどう受け取っているのか——関係の機微は、こうした目立たない言い回しの選択にこそ宿ります。派手な語彙ではなく、こうした小さな語の差の積み重ねが、二人の物語を描いていくのです。
関係を書くことは、変化を書くことです。そして動詞が変わる瞬間は、関係が変わったことを読者に知らせる、いちばん静かな方法かもしれません。序盤ではずっと「触れて」いた指が、あるページでふと「握る」に変わる。読者はその一語から、告白の台詞よりも先に二人の現在地を受け取ります。大きな見せ場を支えているのは、実はこうした一語の推移です。自分の物語の動詞は、関係と一緒に歩いているか。ときどき立ち止まって、確かめてみてください。