姓から名へ、名から愛称へ——呼び方の階段を上るBL小説
初めて名前を呼び捨てにする一行が、どんな告白の台詞よりも雄弁に関係の変化を語ることがあります。
BL小説の読者は、呼び方の変化をとてもよく見ています。「藤堂さん」が「藤堂」になり、やがて「怜」になります。ここで動いたのは呼び方の一語だけですが、読者はそこに関係の段差を正確に読み取ります。日本語には姓と名、敬称の有無、さらに二人称の選択(あなた・君・おまえ・名前そのもの)という細かい目盛りがあり、二人の距離はこの目盛りの上を少しずつ移動していきます。呼称はプロフィールの一項目ではなく、関係の現在地を指し続ける計器なのです。
この目盛りの細かさは、日本語で恋愛を書く者に与えられた資産だと考えられます。ファーストネームで呼び合うことが標準の言語圏では、「名を呼ぶことが事件になる」という段差そのものが作りにくく、日本語作品の翻訳では呼称の変化のニュアンスが訳出しきれない、と指摘されることがあります。裏を返せば、日本語で書くかぎり、地の文で一行も心情を説明せずに、呼び方の一語だけで関係の深まりを描くことができる。この経済性を使わない手はありません。
呼び方が変わる瞬間には、音の質も変わります。姓は教室や職場で誰もが口にする公的な音であり、下の名前は家族や恋人だけが使う私的な音です。敬称が外れたとき、名前は初めて裸の音として響きます。だからこそ、その一回目には準備が要ります。何章ものあいだ「藤堂さん」で通した蓄積があって初めて、呼び捨ての二拍が落雷のように働く。段差を乱発すれば階段はただの坂になり、読者は一段ごとの高さを感じ取れなくなってしまいます。
愛称の発生は、さらにその先にある段です。日本語の愛称は名前の頭二拍を残す形が多いと言われ、ナオフミはナオに、ミツルはミツに縮みます。名前が縮むことと、二人の距離が縮まることが、ここでは同じひとつの運動として起こります。そして愛称には所有の性質があります。作中でその呼び名を使えるのが一人だけなら、それは二人にしか通じない合言葉であり、第三者がうっかり口にした瞬間、嫉妬の場面がひとつ生まれます。誰がどの呼び名を使えるかの一覧は、そのまま関係の地図になるのです。
階段は、上るためだけのものではありません。喧嘩の翌朝に「藤堂さん」へ戻る、他人の前でだけ姓に切り替える、突き放すためにあえてフルネームで呼ぶ。呼称の逆行や使い分けは、進展と同じだけの情報量を持ちます。一段下がった呼び名を聞いた瞬間、読者は台詞の内容より先に事態の深刻さを察します。うまくいっているあいだは誰も見ない計器が、関係が狂ったときにいちばん雄弁になる。呼び方という装置の面白さは、この非対称にあると言ってよいでしょう。
こうして眺めると、呼称の設計とは語彙の設計ではなく、権利の設計なのだと分かります。どんな呼び名が存在するかよりも、それを誰が口にしてよいか、どの場面でなら許されるかのほうが、二人の関係を正確に写します。愛称がふたりだけの合言葉になるのも、第三者の一声が嫉妬に火を点けるのも、喧嘩の翌朝の「藤堂さん」が胸を刺すのも、動いているのが語ではなく許可のほうだからです。呼び名の一覧表を作るなら、名前の列の隣に、それを使える人と、使えなくなる瞬間の列を足してみてください。書き終える頃にはその表は名簿ではなく、二人の関係史の年表になっているはずです。